12番:岩間寺(????)

▶ 寄進者の刻印(最終確認版)

 ・長門国阿武郡萩町字河添開(作)(開は今回発見で作は読めず

 ・????


▶ 西村文作の住所に関する件

 ・文作の長男「有作」の記事に氏は明治24年9月18日山口縣阿武郡奈古村、故西村文作氏の長男に生る」

  「郷里なる小中学校を経て」とあり、「有作」は16~17歳まで奈古村に居たことになる

 ・したがって、文作も観音様寄進時期の明治28年には萩には住んでいないことになる


▶ 西村文作と奈古村

 ・下の官報(著作権切れ)には、明治33年の時点では住所は奈古村である

 ・上の長男「有作」の情報から、文作は少なくとも明治33年までは萩には住んでいないと考えられる


▶ 西村文作の長兄の西村礼作の住所

 ・左下が明治28年4月発行の書籍、右下は明治33年の官報から、住所は奈古村から変わっていない

 ・長兄の礼作家の地番が415番屋敷、分家した弟の文作家が416番屋敷と、隣り合わせに思われる

 ・礼作・文作の両氏は萩で銀行役員等をしているが住所は奈古村で有った様、萩に別荘が有ったかは不明



▶ 昭和の観音帳は「西村文□」としたが

 ・現在でも住所の「長門國????町大字河添」は読み取れるが、名前は読めない

 ・候補の「西村文作」は山口県出身だが、萩村河添に住んだとの記録は見つかっていない

 ・西村文作や兄の西村礼作、及び住所からは神富殖産とつながる情報が全く見つかっていない


▶ 愛知県知事だった勝間田稔が気になる(2022.12.04)

 ・代理が代理名で寄進したとして、萩は毛利藩家老職の毛利祥久、萩出身は品川弥二郎が関係があるが観音様

  寄進者とは考えつらい

 ・愛知県知事だった勝間田稔も萩の出身で、下記に有るよう観音様寄進年の明治28年の前後もやり取りがあり

  該当者が不明な中、有力な候補者と考えられないか

 ・知事履歴

  ・愛知県(明治16~22年)、愛媛県明治22~27年)、宮城県明治27~30年)、新潟県明治30~33年

三重博(長い付き合いが有る)



▶ 神富殖産や神野金之助に関係していて萩と縁がありそうな人

 ・毛利祥久の住所は右田村(現在の山口県防府市)で、役員となった第百十銀行は下関にあったので萩とは

  関係が無さそうだが、家老も務める右田毛利家であり、萩に屋敷があっても不思議ではない

 ・本ページ最下段の1865年の地図では、河添開作に武家屋敷が見える(奥開作には毛利伊勢と読める)

 ・桑原為善は明治26年以降も神富殖産と親交があったが、萩に関係しているかは分かってない

  (昭和26年の農地解放5周年記念に孫が来賓として招かれているので改良区に資料があるかも)

 ・品川弥二郎の生家は萩市河添から直線で西北西2Kmにあるが、河添との関係は不明


▶ 西村文作だとすると都合の良いと思われることは

 ・山口県出身なので神野新田に関係のある毛利祥久や桑原為善や品川弥二郎とつなが可能性がある

 ・兄の礼作の長男 圭太郞と毛利祥久の二女 英子(明治31年8月生)が結婚しているが、結婚時期は妻が

  16歳としても大正初めであり、観音様建立から20年近く経過していて無理があるかも

 ・神野新田完工式の明治29年に品川弥二郎が主賓、桑原為善が来賓として、また昭和26年の農地解放5周年

  記念祝賀会に毛利祥久と桑原為善の孫が来賓として出席しており、神野新田と山口県は親密であった


▶ 西村文作でと決めつけるに足りないことは

 ・西村文作や兄の西村礼作と神富殖産他とつながる情報が全く発見できていない

 ・現時点では寄進者刻印から「西村文作」と判読できない

 ・西村文作の長男の有作の情報等から、明治24~明治33年の住所は奈古村と判明しているので、河添開作に

  別宅が有ったとすれば、寄進者の可能性は残る


▶ 西村家の客観的な情報

・兄の禮作

 ・文久 3年(1863)6月8日、利右衛門の3男として現在の山口県阿武町に生まれる

 ・明治10年(1877)8月、家督を相続

 ・明治16年(1883)、名古村学務委員

 ・明治21年(1888)、山口県勧業諮問会員、所得税調査委員、県会議員、村会議員、徴兵参事員等に就職

 ・明治35年(1902)、農商務省より南清地方商況調査を嘱託され、山口県より清国の実業調査を嘱託されて渡清

 ・明治35年(1902)8月、衆議院議員に当選する

 ・藤田組に入り、農地兼地所課長になって児島干拓地事業の成功を導き、その後は理事の要職を務めた

 ・明治36年(1903)、衆議院議員

 ・大正4年(1915)現在、防長銀行取締役、萩銀行相談役 

 ・昭和3年(1928)現在、藤田銀行、防長銀行、萩銀行監査役

 

・文作

 ・慶応2年(1866)12月 

 ・子女と分家とあるので、早くて子が生まれた明治22年(1889)が分家時期だが、住所は奈古村である

 ・子供の有作が長男/次男と2つ情報があるが、有作は明治24年生まれなので、次男のようだが、家督を相続

  したとあるので、長男は早くに亡くなっている様だ

 

・礼作の長男(圭太郎)と毛利祥久の娘(英子)との結婚

 ・英子が16歳で結婚したとして、大正1年(1914)頃 

 ・観音様寄進の明治28年(1895)以前からの知り合いの関係だったなら、毛利祥久の代理で観音様寄進を

  した可能性はあるが、どうでしょう


▶ 萩銀行

 ・営業:明治30年~昭和3年に山口銀行に合併(銀行変遷史データベースから)

 ・明治28年の観音様寄進時には、萩銀行はまだなかった


▶ 刻印の状況

昭和56年の観音帳は「西村文■」と判定している


▶ 刻印の状況

 西村文作だと判断できないが西村文作とすると下記の疑問がある(上がなぞり分で、下が原画)

 ・1文字目は「西」の様には見える・

 ・2文字目は「村」の右の「寸」の縦線が横線との上下で1本線になってない

 ・3文字目は「文」よりも「欠」や「次」に見える

 ・4文字目は「作」ではなく、上に「日」が付く漢字の様に見えるが、思いつく漢字が無い


▶ 萩町河添(こうぞえ)の大正10年の拡大地図

 ・刻印の「河添」の下に「開?」らしき文字があり、地図の中央部やや左に「開作」という地名がある

 ・兄の礼作は観音様建立の当時は、萩より北東に直線で約15Km離れた現在の阿武町に住んでいた

 ・文作は分家したとあるが時期と住所は不明、兄の関係で萩に出た可能性はあるが、もっと町中にするのでは

 ここをクリックで、地図のソースにリンク


▶ 開作について

 ・開作という地名は現在は使われていないよう、明治37年発行の書籍にはある

 ・ここをクリックで「開作」が使われているページの情報にリンク


▶ 1865年の河添村の地図

 ・開作の場所の文字は読めず、奥開作に「毛利伊勢」が見えるが、毛利親彦で阿川毛利家(の第14代目

 ・江戸時代末期の河添村は武士の別荘などの屋敷があったのではないかと思う

 ここをクリックで、地図のソースにリンクする


▶ 12番観音寄進者地図

 ・現在の地図


▶ 三重県総合博物館所蔵資料検索データベースより引用

 ・下記で調べたが該当者情報は見つからず

 ・住所の萩町河添からは何ら情報が検索できないので、「西村文□」で抽出してみた

 ・刻印の名前は「文□」の2文字のよう、候補者は下の赤地白字の4名となるが「萩」との関係は見えない