31番:長命寺(竹田晨正?)

▶ 寄進者の刻印(最終確認版)

 ・尾張国名古屋市横三蔵町

 ・竹田晨正(たけだ ときまさ)


▶ 家族など

 ・晨正(4代長蔵)は天保5年(1834)10月13日に長男として誕生

 ・妻となる金平の長女「ゑい」は弘化4年(1848)4月7日に江西で生まれた

 ・結婚は文久3年(1863)6月15日、元治元年(1864)に長男「鋹太郎」が生まれ、5男4女をもうける

 ・3男「三郎」 後の神野三郎が明治8年(1875)5月28日に生まれる

 ・剣道や馬術に長け、初代金之助が幼少の時には剣道の修行に出向いていた

 ・清洲城跡の保存や和歌や俳句の研究を行い、百人一首の本の作製にも係わっている


▶ 神富殖産との関係

 ・初代金之助が幼少期に竹田晨正の道場で剣道の修業をしている

 ・竹田晨正は神野本店で従業員と思われる働きをしている

 ・妻が初代金之助の姉の「ゑい」で長男「鋹太郎」は神富殖産で修業

  している

 ・3男「三郎」は初代金之助の娘「りき」と結婚、分家して豊橋神野家

  の初代当主となる

 ・右の写真は、左から晨正、ゑい、三郎

▶ 神富殖産で長男の修業



▶ 竹田晨正が明治15年頃に横三蔵に移転の資料


▶ 竹田晨正の紳士録

 ・明治42年の紳士録に横三蔵とある

 ・大正3年の書籍に50歳から閑地に身を置くとあり、明治16年から横三蔵に住んでいると思われる

 ・百人一首の書籍に書かれている住所は清州町のまま



▶ 竹田晨正の奥さん「ゑい」さんの情報

・下の左の明治45年の神野新田事務所の日誌には、ゑいさんの住所が横三蔵と書かれている

・下の右の三重博の目次では、明治26年に「竹田鋹太郎内」とあり、明治30年には「鋹太郎不在で帰る」とあり

 清洲の竹田家には住んでいないようだ

・したがって明治16年からゑいさんも夫婦で横三蔵に住んでいたと考えるのが妥当である



▶ 淺見鉦太郎の出版社で書籍も発行している

 ・2番観音寄進者の淺見鉦太郎とも親交があった

 ・書籍の住所は清州のままであった(紳士録では明治16年頃より横三蔵とある)


▶ 竹田晨正地図

 ・大正3年の愛知県紳士録には明治16年から横三蔵5に住んでいたとある(書籍の住所は清洲町のまま)

 ・横三蔵長の4町目と5丁目は昭和38年に白川町に編入された

 ・地図の中央は「白川公園」にしてます


▶ 三重県総合博物館所蔵資料検索データベースより引用