5番:葛井寺(後藤増平)

▶ 寄進者の刻印(最終確認版)

 ・尾張国名古屋市鉄砲町

 ・初代後藤増平(ごとう ますへい/ますべい)


▶ 神富殖産との関係

 ・後藤家は初代が明治の初め頃には紅葉屋と同じ町内(鉄砲町)で「糸屋」として商いしていた

 ・紅葉屋(財閥)をまねたか、洋物を商い、その後、殖産事業、その後も銀行や会社経営に転換していく

 ・明治20年から神野本店の社員の様に働いており、明治32年時点では名古屋電気鉄道の取締役になっている

 ・観音様寄進時の明治28年は初代の増平が当代で、2代目はまだ増平を継いでない


▶ 家族(大正4年の書籍から2代目の情報)

 ・初代の詳細情報は見つかっていない、下は2代増平の情報である

 ・2代目は明治38年に家督を相続し名を襲名とあるので、下の大正4年時点は2代目のこととなる

 ・母が弘化元年(1844)なので、母が24歳の子、父の生年は不明だが30歳位の子か?

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▶ 大正4年の人事興信録(2代目の情報)

 ・明治38年に家督を相続し名を襲名とあるので、大正4年時点は2代目の事である

 ・名前は「ますべい」になっているか。他では「ますへい」が多いので「ますへい」とする

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▶ 大正3年の糸増と紅葉屋(2代目の時代)


▶ 明治32年の状況(初代の情報)

 ・これ以前の紳士録には名古屋が掲載されてない(名古屋が掲載連れている最初)

 ・名前のルビが振られている、後藤増平の上が「ま」となっており、「ますべい」の証拠となる

 ・明治38年に2代目が家督を相続と名を証明とあるので明治32年当時は初代となる

 ・明治32年、日本紳士録. 第5版 より


▶ 明治33年の状況(初代の情報)

 ・上の明治32年では尾張銀行の専務取締役で、下の明治33年は頭取とある

 ・明治38年に2代目が家督を相続と名を証明とあるので明治33年当時は初代となる

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▶ 後藤増平(糸増)宅地図

 ・観音様寄進当時の明治28年の紅葉屋と同じ町内の鉄砲町、現在も「イトマス駐車場」を経営しているよう

 ・場所は地図中心の「名古屋市科学館」右上の「イトマス駐車場」の辺り


▶ 三重県総合博物館所蔵資料検索データベースより引用

 ・2代増平は明治38年に家督相続と名を襲ぐとあるので、下は全て初代と考えられる

 ・赤地白字は別の資料から追記した


▶ その他